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| 清水城主5代義高公戦死の地。永禄8年の合戦で戦死、法名から夏山塚として宝暦13年の200回忌に清水城の遺臣が供養のため建てたもの。
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| 終戦直後元総理大臣小磯国昭氏が大蔵村村長になろうとしたが実現寸前で取り止めとなった。 |
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| 享保年間の創建で、新庄地廻三十三観世音9番目の札所として知られる、十一面観世音。多くの人がお札参りに訪れている。
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| 山が東北に広がり、ちょうど扇の要に見える位置に、枝ぶりの面白い松が生えているため、船頭たちか゛要の松と呼び習わした。その渕の主である大きな緋鯉は16日の盆踊りの夜、美しい娘に姿を変え、踊りに来るという言い伝えがある。
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| 大蔵村にはかつて4ヶ所の渡船場があったが、年々の道路整備や架橋により、現在は廃止され、公園として昔の面影を残している。
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| 戦国時代を駆け抜けた清水氏の城主代々の墓所、そして城址記念碑。昭和14年山形県史跡名勝地に指定された。当時の県知事石黒武重氏の直筆の碑。
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| 樹齢500年を越え、幹は大人4人で抱き廻す程の太さ。枝の形が笠に似ていた事から笠松と呼ばれていた。歳月と厳しい風雪に力尽きて終戦後に倒れ、後に植樹された跡継ぎの松。
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| 最上川舟運の発達により、この地はたくさんの人と物資でにぎわい最上川の果たした歴史的役割は大きなものでした。正岡子規が詠んだように最上川を舟が往来する姿は日常的な光景として目にすることができたようです。 『舟引の背丈短し女郎花』・『蜻蛉や追いつきかぬる下り船』 |
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| 陰倉からの遠望は色づく秋の山峡にさ霧がただよう風景が美しさを誇る。豊かな自然と雄大な風景がもたらした恵みは訪れる人々をやさしくそして厳かに迎える。
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| 清涼な空気のなか、生命の息吹を感じるブナ林での散策は、身も心もリフレッシュしてくれる。
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| 貴重な水生植物が生息する男沼・長沼。近くには享保12年に創建された馬頭観音があり、人々の信仰の沼として知られる。
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| 特段棚田といった概念はなく、営々と培われてきた田圃を耕作してきたといったスタンス。平場の農用地が無い。面積は12.5ha、平均勾配は主傾斜約1/20〜1/40で月山・葉山山麓に展開している農用地であることから、シラス土壌地帯であり、火山地帯特有の地形形状と水田の景観が見事である。 四ヶ村の棚田のページへ |
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昭和22年9月、歌人、斎藤茂吉が肘折を訪れ、温泉の素晴らしさをはじめ、眼下に広がる仙境の美などに心をうたれ、数種の短歌を詠んだ。その歌を刻んだ碑。
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| むかし、新庄藩の侍、小山八郎が大蛇を退治したと言う大蛇伝説が伝わる銅山川の名勝。新緑や紅葉が水面に映えて、四季折々の彩りが美しい渓谷。
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| 肘折の温泉街の遊歩道を通って銅山川沿いに上流に登っていくと、川を挟んだ肘折発電所
の向いに源泉公園がある。この公園は銅山川のすぐそばにあるので、渓流つりを楽しんだり、川のせせらぎを聞いて心身をリラックスさせるには最適の場所である。また公園内にある源泉の全16個の内の1つで、昭和42年12月14日に「組合3号」として15番目に指定された。ドームのガラス張りの窓から中をのぞくと、お湯が勢いよく湧き出しているのが見える。 |
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| 奇岩が連なる肘折温泉開湯伝説の地、老僧が住んだと言われる洞窟。後に地蔵倉と呼ばれるようになり、今では縁結びの神として、また商売繁盛の神として知られ、多くの人がお参りに訪れる。
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| 日本三大銅山である。銅山川の源流に近いところで、西川町間沢の荒木源内という人が、約400年前に探し採鉱したのが始まりで、山中で鶏鳴を聞き、そこを探したら大鉱脈にあたったという。約300年前の元禄年間には、全国243の銅山の中で年間産銅量は、愛知県の別子銅山、秋田県の院之内銅山に次ぐ生産量を誇った。当時の在山人口は3,000人を超えていたといわれている。 |
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| サギ草、ニッコウキスゲなどの高山植物が咲き誇り、月山への登山口になっているため修験者や登山者が多く訪れている。 | ![]() |
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